清里と清泉寮

日本聖徒アンデレ同胞会のキャンプ場を建設しようと、その候補地を探していたポール・ラッシュ博士が、その条件として考えていたのは、日本の象徴である富士山が見える場所でなければならないという事でした。それにぴたりと合った理想の場所、清里を紹介したのは、甲府の談露館の主人である中沢氏でした。 建設予定地は恩賜林と言って山梨県有地となっていましたが、当時の県知事は八ヶ岳山麓の開発に先鞭をつけてもらえると喜び、キャンプ場建設のために県有地貸与の許可が出されました。博士は、当時教鞭をとっていた立教大学を中心とした若い学生たちと道なき道を切り開き、材木を運び、念願の建物を完成させたのです。 

place_event_seisenryo_episode_02.jpg

清泉寮の名前の由来

 1938年(昭和13年)に完成したキャンプ場の名前は、聖書の聖句からつける、周囲の山の名前にする等いろいろな提案がありましたが、その命名は立教大学のチャペル付きだった高松司祭に依頼されました。 司祭はキャンプ場のある敷地が当時の清里村と大泉村にまたがっていることから、両方の地名から一文字ずつとって「清泉寮」としてはどうかと提案しました。ポール・ラッシュ博士は、両方の頭文字をとっただけの名前に当初は不満げだったそうですが、その英語訳が「ピュア=スプリング」(清らかな泉がわき出でるキャンプ場)であることを聞くと、大いに喜んでその命名に賛成したそうです。

聖アンデレクロス

place_event_seisenryo_episode_03.jpg

イエス・キリストの弟子(12使徒)の1人であったアンデレは、迫害に遭い、キリストと同じように十字架にかけられることになってしまいました。 この時彼は、キリストと同じ十字架では恐れ多いからと、当時は罪人が処刑される際に用いられたX型の十字架(斜十字架)に張り付けになり殉教したのです。それゆえ、この十字架を聖アンデレクロスと呼ぶようになりました。