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アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ博士ゆかりの地
フットボールの普及に特に貢献された14名を顕彰

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1996年3月に日本列島のほぼ中心に位置する「アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ博士」ゆかりの地である山梨県・清里に日本アメリカンフットボールの殿堂が造られました。館内には、殿堂入り顕彰者(現在14名)の顕彰額をはじめ、日本に競技を紹介したポール・ラッシュ博士を中心とした日本のアメリカンフットボール創世期の出来事から、発達史、現在の振興の様子、各種大会のプログラムやポスター関連書籍など貴重な資料を展示しております。また、殿堂の建設募金に協力した全国の学生、社会人チーム、選手、役員、またアメリカンフットボール関係者約2万人の名を記した名板もございます。

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毎年1月に行われるのが、日本のアメリカンフットボールの頂点を決定する「ライスボウル」。 その戦いの中で最も輝いたプレイヤーに与えられる最高の栄誉が、「ポール・ラッシュ杯」です。日本にフットボールが誕生して50年目の1984年、ライスボウルは東西大学選抜対抗戦から日本選手権へと移行し、それを機に試合で最も活躍したプレイヤーに対して「日本アメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ」の名を冠した最優秀選手賞(MVP賞)を贈り、その健闘を讃えることになりました。館内にはこの「ポール・ラッシュ杯」も展示されております。
日本アメリカンフットボールの殿堂が、少しでも多くの方々に、アメリカンフットボールというスポーツを知り、また親しんでいただくきっかけになれば幸いです。
公益財団法人キープ協会は、社団法人日本アメリカンフットボール協会より施設の運営管理を委託されております。

 

 アメリカンフットボールの殿堂顕彰者

ポール・ラッシュ以外の殿堂顕彰者13名

第一次顕彰者

松本 瀧蔵 氏 (まつもと たきぞう)    (1901~1958)

1930年ハーバード大学留学、その後帰国し明治大学教授。1934年東京学生アメリカンフットボール連盟結成にあたり、理事長のポール・ラッシュ氏を助け書記長に就任。審判としても活躍し、日本で最初の試合に先立つ10月25日、明治大-在日ハワイ二世軍の主審を務める。1942年、帰国したポール・ラッシュ氏の後を継ぎ、第2代の関東學生連盟の理事長に就任。1946年衆議院議員になり、国民協同党政調会長、片山内閣の外務政務次官、鳩山内閣の内閣官房副長官、岸内閣の外務政務次官を歴任。

小川 徳治 氏 (おがわ とくじ)         (1905~2001)

1934年、立教大学教授として立教大学アメリカンフットボール部部長に就任。同時にポール・ラッシュ氏とともに明治大学のアメリカンフットボール部の創部の支援。同年の東京学生アメリカンフットボール連盟結成時に理事に就任。連盟創設期の防具の国産化を推進するとともに連盟の総務担当として競技場の交渉と手配、連盟の経理を担当し、実務的な連盟活動の推進者として貢献。同時に立教大学アメリカンフットボール部を育成。戦後、1963年から2年間、1969年から2年間の2回の日本協会理事長。

服部 慎吾 氏 (はっとり しんご)       (1913~1995)

立教大学予科よりフットボールを始め、センターとして活躍。1939年立教大学卒業後、1940年応召、札幌の歩兵部隊に従軍。終戦後、関東地区のフットボールの復興に戦前の仲間とともに貢献。チームの再興、グラウンドの手配、防具の準備など、戦後再来日したポール・ラッシュ氏とともに運営の中心となる。1948年、日本フットボール協会の再建に努力し、戦後初代の理事長に就任。以降、理事長として5年間、フットボールの復興に貢献。戦前、戦後の日本のアメリカンフットボールの記録を整理。

安藤 信和 氏 (あんどう のぶかず)   (1920~現在)

1937年、立教大学予科入学後直ちにアメリカンフットボール部に入部。ラインとして活躍し1942年卒業。太平洋戦争に従軍し戦後シベリアで4年の抑留生活。1952年関東大学連盟理事を経て1954年から審判活動に従事。1960年に関東地区審判組織の部長となり、1964年審判協会設立とともに初代の理事長。この間、ボウルゲームの主審を数多く務めるとともに、審判組織の充実と公式規則の制定に貢献。1979年から12年間、日本協会理事長に就任。日本協会顧問。

羽間 平安 氏 (はざま へいあん)       (1927~現在)

関西大学アメリカンフットボール部のQBとして1948年1月の第2回甲子園ボウルで大学日本一となる。1949年1月の甲子園ボウルでも活躍。卒業後、関西地区で審判として活動を開始するとともに連盟組織の確立と審判の実務を定めたメカニックの確立に貢献。リーグ戦の審判をはじめ通算32回の甲子園ボウルの審判を担当。うち1955年から1983年まで29回の主審を務める。この間、ルールの解釈、審判の指導、競技の普及に貢献する。1998年より関西協会会長。日本協会顧問。

米田 満  氏 (よねだ みつる)         (1928~現在)

関西学院大学で1949年から2年間、QBとして甲子園ボウルに出場し、2年連続大学日本一となる。卒業後、関西学院大学のコーチとして4回、監督として11回、総監督として10回の合計25回の甲子園ボウル出場を果たすとともに、中学、高校、大学の10年一貫教育のシステムを確立。大学のリーグ33連覇、高校の214連勝、中学の52回連続甲子園ボウル出場等の業績を挙げた。また、東京大学アメリカンフットボール部の創部を支援するなど、他のチームの指導にも貢献。

古川 明  氏 (ふるかわ あきら)       (1931~現在)

池田中学時代にフットボールを始める。関西学院大学で1949年から4年間、ガードとして甲子園ボウルに出場。第4回、第5回甲子園ボウルで2年連続、大学日本一となる。卒業後、米デンバー大学に留学し本場の知識を吸収。帰国後、1956年から関西連盟の活動に携わる。同時にNCAAとの窓口として技術交流と公式規則の適用を推進。1970年より2000年まで現学生連盟専務理事として関西地区のフットボールの普及に貢献。1994年より4年間、日本協会理事長。1995年関西協会理事長。日本協会顧問。

篠竹 幹夫 氏 (しのたけ みきお)       (1932~2006)

高校時代ラグビー選手として活躍後、日本大学アメリカンフットボール部に入部。在学中に負傷し闘病生活を続けながら1955年日本大学初優勝の原動力となる。卒業後、コーチに就任。日本大学助手補佐を皮切りに1977年教授に就任し、46年間教育者として貢献。1959年日本大学アメリカンフットボール部監督に就任し、2003年3月までの44年間の監督在任期間中、290勝39敗4分け。関東大学リーグ優勝25回、甲子園ボウル優勝20回、日本選手権4回の優勝を果たす。

第二次顕彰者

松葉 徳三郎 氏 (まつば とくさぶろう)   (1903~1981)

大阪YMCA体育主事として1932年ロサンジェルス五輪視察時に現地の南カリフォルニア大学とスタンフォード大学の体育施設を見学、フットボール競技に接する。帰国後、1934年夏に母校関西大学でチーム組織化の活動を開始、1935年に関西初の部として創部、1937年日本米式蹴球協会関西支部長、1941年関西鎧球連盟理事長に就任。戦後、関西地区のフットボールの復興に中心メンバーとして参画。1946年関西大学米式蹴球連盟を再建、理事長に就任し、戦後の関西地区のフットボールの活動再開に貢献。

保科  進  氏 (ほしな すすむ)    (1906~2000)

1935年ハワイより来日、法政大学創部に貢献し初代監督兼プレーヤーとして活躍。1938年関東學生米式蹴球連盟理事に就任、連盟活動、審判活動に貢献。法政大学監督を計20年、成城大学コーチを2年、明治学院大学監督31年・総監督4年の計57年間、各大学で技術指導。この間、米国の理論をいち早く取り入れると共に1964年度ライスボウル東軍監督をはじめ多くの選抜チームの監督、コーチを務める。1955年から法政大学体育講師として一般学生にフットボール実技で競技の普及に努める。91歳までグラウンドで指揮を執る。

井上 素行 氏 (いのうえ もとゆき)    (1915頃~1987)

ハワイ出身。早稲田大学米式蹴球部の設立に寄与し、1934年東京學生米式蹴球連盟設立に学生委員として参加。1934年日本初のフットボール公式試合(学生選抜-横浜YACA)に出場。その後もオールスターのプレーヤーとして活躍し1936年初の米国遠征の全日本選抜チームの選手として渡米。卒業後、審判員として貢献。戦後、フットボールの復興に中核メンバーとして参画、1946年関東フットボール・リーグ理事長に就任。1952年日本フットボール協会競技制定委員として公式フットボール競技規則書の発行に加わる。

吉川 太逸 氏 (よしかわ たいつ)       (1920~現在)

1940年滋賀県師範学校卒業後、40年間、小、中、高の教師として教育一筋に貢献。青少年の体力向上、選手の育成、地域における各競技の普及、振興、後進の育成に努める。戦後、タッチフットボール、ハンドボール等のチームの組織化と県、市における協会、連盟を設立。1948年滋賀県タッチフットボール連盟を設立し1951年甲子園ボウルでタッチフットボール競技の実施に貢献、同年長浜ボウルを創設。1975年、社会人チーム湖北ファイニーズの会長として育成に寄与。アメリカンフットボールのユース、ジュニアの育成の先覚者として貢献。

金澤 好夫 氏 (かなざわ よしお)       (1935~現在)

明治大学在学中、第11回ライスボウルに出場。卒業後、専修大学コーチ、拓殖大学初代監督に就任。この間、関東大学連盟、日本アメリカンフットボール協会の理事を務めると共に、社会人団体の基盤づくりに貢献。1980年東日本社会人協会を設立し理事長に就任、社会人王座決定戦を創設。1985年日本社会人アメリカンフットボール協会初代理事長に就任後、1996年Xリーグを設立。第1回、第2回のワールドカップで日本チームを優勝に導く。2003年~2005年日本アメリカンフットボール協会理事長。2003年国際アメリカンフットボール連盟上席副会長に就任。