| 2004年殿堂入り顕彰者-2004 Hall of Fame enshrinees- |  |

日本でアメリカンフットボールの初の公式試合が行われたのは1934(昭和9)年11月29日でした。立教大学、早稲田大学、明治大学からなる「全日本学生選抜チーム」と在日米国人を中心とした「横浜カントリィ・アスレチック・クラブ」の試合でした。 その試合の1ヶ月前に設立された「米式蹴球学生連盟」の発足が「日本アメリカンフットボール協会」の始まりです。つまり、この1934年が、アメリカンフットボールの元年で、今年は70周年という記念の年にあたります。 日本アメリカンフットボール協会は、これまでフットボールの普及に特に貢献された8名を顕彰することとし、1月3日に行われた第57回ライスボウルで披露しました。この方々の貢献を顕彰し、栄誉を讃えるために、「日本アメリカンフットボールの殿堂」に顕彰板を設置します。 なお、最初の殿堂入りは、1996年のポール・ラッシュ博士であります。 | | | <日本アメリカンフットボール協会殿堂運営委員会> |
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■■殿堂入り顕彰者(年順・敬称略) ■■ 松本 瀧蔵 (まつもと・たきぞう) 1901~1958 | 1930年ハーバード大学留学。帰国後、明治大学教授となる。34年「東京学生米式蹴球連盟」結成にあたり、書記長となり、理事長のポール・ラッシュを助ける。 39年10月25日に、日本での最初の公式試合に先立って行われた明治大学一在日ハワイニ世チームの主審を務める。 42年、ポール・ラッシュの後を継ぎ第2代関東学生連盟理事長に就任。45年衆議院議員、外務政務次官、内閣副長官を歴任。 |  | 小川 德治(おがわ・とくじ) 1905~2001 | 1934年立教大学アメリカンフットボール部部長に就任。同時にポール・ラッシュとともに明治大学をはじめ大学のフットボール部の創設に貢献。 東京米式蹴球連盟結成時の理事。連盟の総務として創設期の防具の国産化を推進、競技場の手配など実質的な連盟活動の推進に貢献。 | | 服部 慎吾(はっとり・しんご) 1913~1995 | 立教大学予科よりフットボールを始め、センターとして活躍。 太平洋戦争後、関東地区の復興に貢献。再来日したポール・ラッシュとともにグランドの手配、防具の準備など日本協会の再建に努力し、運営の中心となる。5年間理事長をつとめ、長年に渡るフットボールの記録を整理。 | | 安藤 信和(あんどう・のぶかず) 1920~ | 1937年、立教大学予科入学後すぐにフットボール部に入る。ラインとして活躍し42年に卒業。 52年関東大学連盟理事に就任。54年より審判活動に従事。60年関東地区審判組織の部長、64年審判協会設立後初代理事長を務める。 この間、多くのボウルゲーム主審を担うとともに公式記録の制定に貢献。79年より12年間協会理事長。現在は顧問を務めている。 |  | 羽間 平安(はざま・へいあん) 1927~ | 関西大学アメリカンフットボール部のクォーターバックとして、1948年第2回甲子園ボウルで大学日本一となり、翌年の甲子園ボウルでも活躍。 卒業後関西地区で審判としての活動を開始し、連盟組織の確立と審判の実務を定めたメカニックの確立ルールの解釈、審判の指導、競技の普及などに貢献。多くのリーグ戦の審判をはじめ、通算32回の甲子園ボウルの審判を担当。 98年より関西協会会長、日本アメリカンフットボール協会顧問。 |  | 米田 満(よねだ・みつる) 1928~ | 関西学院大学で1949年より2年間クォーターバックとして出場し、2年連続日本一となる。 卒業後、関西学院大学のコーチとして4回、監督として11回、総監督として10回の合計25回の甲子園ボウル出場を果たすとともに、中学、高校、大学の10年間一貫教育のシステムを確立し、大学のリーグ33連勝、高校の214連勝、中学の52回連続甲子園ボウル出場などの業績を挙げた。 東京大学アメリカンフットボール部の創部の支援など他のチームの指導もした。関西学院大学名誉教授。 |  | 古川 明(ふるかわ・あきら) 1931~ | 池田中学時代にフットボールを始める。関西学院大学で1949年から4年間ガードとして甲子園ボウルに出場し、第4回、第5回甲子園ボウルで2年連続大学日本一となる。 卒業後、米国デンバー大学に留学し、本場の知識を吸収。56年より関西連盟の活動に携わる。70年より2000年まで学生連盟専務理事として関西地区のフットボールの普及に貢献。 94年より4年間日本協会理事長。現在は顧問。95年関西協会理事長。 |  | 篠竹 幹夫(しのたけ・みきお) 1932~2006 | 高校時代はラグビー選手として活躍。日本大学に入学し、アメリカンフットボール部に入部。負傷し、治療を続けながら1955年関東大学連盟秋季リーグの日本大学初優勝の原動力となる。 卒業後、コーチとなり、77年に教授に就任、46年間教育者として貢献。59年日本大学アメリカンフットボ一ル部監督となる。2003年までの44年間の成績は290勝39敗4分、関東大学リーグ優勝25回、甲子園ボウル優勝20回、日本選手権4回の優勝を果たした。
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■■殿堂入り顕彰者プレート披露式典の会場スナップ
2004年7月3日、日本アメリカンフットボールの殿堂にて挙行
日本アメリカンフットボールの殿堂式典会場受付 |
 顕彰者プレート披露式典で挨拶する森田一日本協会会長。 森田会長の右手後方のトロフィーは日本獲得の第1,2回ワールドカップ |
 除幕された顕彰プレートは、殿堂に永久掲示される |
 顕彰者の記念撮影。左から松本氏遺族、小川氏遺族、服部氏遺族、安藤氏、羽間氏、米田氏、古川氏、(篠竹氏は都合により欠席) |