松葉 徳三郎 (まつば とくさぶろう) 1903~1981 |
大阪YMCA体育主事として1932年ロサンジェルス五輪視察時に現地の南カリフォルニア大学とスタンフォード大学の体育施設を見学、フットボール競技に接する。 帰国後、1934年夏に母校関西大学でチーム組織化の活動を開始、1935年に関西初の部として創部、1937年日本米式蹴球協会関西支部長、1941年関西鎧球連盟理事長に就任。 戦後、関西地区のフットボールの復興に中心メンバーとして参画。1946年関西大学米式蹴球連盟を再建、理事長に就任し、戦後の関西地区のフットボールの活動再開に貢献。
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保科 進 (ほしな すすむ) 1906~2000 |
1935年ハワイより来日、法政大学創部に貢献し初代監督兼プレーヤーとして活躍。1938年関東學生米式蹴球連盟理事に就任、連盟活動、審判活動に貢献。法政大学監督を計20年、成城大学コーチを2年、明治学院大学監督31年・総監督4年の計57年間、各大学で技術指導。 この間、米国の理論をいち早く取り入れると共に1964年度ライスボウル東軍監督をはじめ多くの選抜チームの監督、コーチを務める。1955年から法政大学体育講師として一般学生にフットボール実技で競技の普及に努める。91歳までグラウンドで指揮を執る。 | |
井上 素行 (いのうえ もとゆき) 1915頃~1987 |
ハワイ出身。早稲田大学米式蹴球部の設立に寄与し、1934年東京學生米式蹴球連盟設立に学生委員として参加。1934年日本初のフットボール公式試合(学生選抜-横浜YACA)に出場。その後もオールスターのプレーヤーとして活躍し1936年初の米国遠征の全日本選抜チームの選手として渡米。卒業後、審判員として貢献。 戦後、フットボールの復興に中核メンバーとして参画、1946年関東フットボール・リーグ理事長に就任。1952年日本フットボール協会競技制定委員として公式フットボール競技規則書の発行に加わる。
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吉川 太逸 (よしかわ たいつ) 1920~ |
1940年滋賀県師範学校卒業後、40年間、小、中、高の教師として教育一筋に貢献。青少年の体力向上、選手の育成、地域における各競技の普及、振興、後進の育成に努める。 戦後、タッチフットボール、ハンドボール等のチームの組織化と県、市における協会、連盟を設立。1948年滋賀県タッチフットボール連盟を設立し1951年甲子園ボウルでタッチフットボール競技の実施に貢献、同年長浜ボウルを創設。1975年、社会人チーム湖北ファイニーズの会長として育成に寄与。アメリカンフットボールのユース、ジュニアの育成の先覚者として貢献。 | |
金澤 好夫 (かなざわ よしお) 1935~ |
明治大学在学中、第11回ライスボウルに出場。卒業後、専修大学コーチ、拓殖大学初代監督に就任。この間、関東大学連盟、日本アメリカンフットボール協会の理事を務めると共に、社会人団体の基盤づくりに貢献。 1980年東日本社会人協会を設立し、理事長に就任、社会人王座決定戦を創設。1985年日本社会人アメリカンフットボール協会初代理事長に就任後、1996年Xリーグを設立。第1回、第2回のワールドカップで日本チームを優勝に導く。 2003年~2005年日本アメリカンフットボール協会理事長。2003年国際アメリカンフットボール連盟上席副会長に就任。
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